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  ペリ・プシュケース

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とまりぎ

 高校の友達から「暇だったら会わない?」と突然のメールを頂いた今日。
 相手は、三年間クラスが一緒で、部活も一緒で、恐らく高校生活のなかでは一番長い時間を一緒に過ごしていた子なんですけど、なんだろうな、一緒にいながらも、横に並ぶと言うよりは、私はいつも彼女の一歩後ろにいて、彼女に私が必要なときだけ追いついて、隣を歩く。そんな、関係。お互いわりとおしゃべりなはずなんですけど、ふたりで並んで弁当食べてると無言のときが多くて、でもその無言も不快じゃなかった。私は彼女の傍にいると、彼女のして欲しいことについて思いを巡らせて、気を遣っていたような気がするんですけど、それすら楽しかったというか嬉しかったと言うか。なんて言えば良いんだろう、敬愛していた、かな。ちょっと大げさだけど。
 可愛くて闊達でノリが良くて、けれどもとても真面目な一面を持つ彼女は、一年生のときから良い成績をキープして、指定校推薦で、いわゆる「名のある大学」に進んだ子でした。
 そんな彼女と久しぶりにお茶をして、彼女が5月に大学を中退していたことを知ったという。私、高校時代の友達と現在あまり交流がないので(Twitterとかではフォローしあってる子もいるけど、会ってない)、全然知らなくて。いや、以前会ったときに予兆は感じていたので、驚いたりはしなかったんですけど、自分の言葉の力のなさにかなりべこりと凹みました。「だいじょうぶだって」「がんばったね」って何度も口にして、そしてそれはまごうことなく私の本心だったのだけれど、ちゃんと彼女に届いたのだろうか。そもそも、彼女にとってそれは必要な言葉だったのかな。というか、もっと別に話したいことがあったんだけど、私が中退のことを知らなかったからその話になってしまったのでは。と、まあひたすらにぐるぐるしていたという。
 そんなこんなで、話して別れたあと、自己嫌悪に陥ってたんですけど。
 少し時間を置いたあと、彼女から「今日はありがとうね」ってメールが来て、何通か他愛のないことをメールしあって「またどこかに行こう」って言いあって、ちょっとだけ、安心しました。「また」って言ってもらえてよかったなって。
 何が言いたいんだって内容になってきてしまいましたが…。
 「友達」というよりは、彼女にとっての止まり木みたいな存在になれればいいなと思う。都合のいい人間でも良いかなって。呼びたいときに呼んで、話して、ちょっとでもすっきりしてもらえれば、それで。
 こう言う感覚は、おかしいのかな。おろかなのかな。ひとりよがりすぎるかな。ちょっと、わかりません。
 そして、次に呼んでもらったときには、私から明るい話ができれば良いと思ったりしました。



 私のなかのスイッチのうえに、ぽつぽつと何かが降り積もっていて、もう少しでぱちんと切り替わりそうなのに、なかなか切り替わらない。

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三歳のわたし

 通学電車内で、日頃お世話になっている占いサイトcocoroniさんに掲載されていた「栗原類×濱口善幸のタロット見習い」を読みました。全部通しては読んでなくて、たまたまこの記事だけ。栗原類さんの自分にむけるまなざしに既視感を覚えながら、読む進める。三歳の自分を抱きしめる、という部分がいちばん心に残った。
 三歳のわたし。どんなこどもだったのだろう。三歳。我が儘で小さくていとけなくてむきだしのいきもの。
 抱きしめてあげられたら、すこしすくわれた気持ちに、なったりするのでしょうか。

 かえる、という言葉が、なんとなくここ数年私の核にある気がします。
 かえる。再生と脱皮。再来と出立。めぐっている。水のように。蟹座のさがなのかもしれない、なんて。
 私は後悔したことがほとんどないと先日の日記に書いたけど、それは振り返っていないからみえないだけなのかも知れない。振り返ることのできない私は、三歳のわたしを抱きしめてあげられないまま、ただただ大股で先へ先へと進もうと、足掻いている。そんな気がします。いまはそれでいいのかな、とも思うのですけれども。

 「センシティブ・ブルー」で描いた、「黄色」と「青」は、「理想」と「現実」であり、「心(本音)」と「頭(建前)」であり、「感情」と「理性」であり、二律背反、表裏一体のものすべて。それらはどれも、ほんとはふたつでひとつで、ふたつは繋がっていなければいけないのに、不思議と人はふたつが繋がることを、ちいさな自分をあいしてあげることを、怖がっている気がします。いや、怖がっているのはわたしだけなのかも知れませんが。
 そんなことを考えながら、眠ります。

虹の残滓

ゆうやけ
 一ヶ月ぶりの日記。
 Twitterでも話題になってましたが、虹が出ていましたね。電車で思わず席を立ち、空をずっと見ていました。ちょっと恥ずかしかった。でも幼いころの私ならきっと、色んな人に「虹が出てるよ!」って伝えてたんだろうなとか考える。そう思うと、大きくなると言うのは、ちょっとつまらない。
 二重の虹。濃くなったり薄くなったり、消えかかったと思ったらまた現れたり。あざやかであった。
 夕焼けも、雲の端が燃えて、神さまがいるみたいな景色だった。
 写真撮るか!と思った直後に携帯の電池が切れ、虹は薄れていき、しょんもりしながら電車を降りる。
 ふと、顔をあげたら、私のかえる方向に、はっきりと虹が出ていて。
 早く帰らないと、と。一眼レフ持って、撮りにいこうって。こんなの、もしかすると二度とないぞって。
 でも、今朝は雨が降っていて自転車が使えず、私は家から駅まで徒歩なわけです。
 走りました。あほみたいに上見て、息切らせながら。でも、1分後1秒後に虹が残ってる保証なんてどこにもなくて、日は暮れていって、虹が薄れていって、今度こそ消えてしまって、あーって感じでした。あーって。
 私は「あのときこうしていれば」「ああしていれば」ってあまり考えることはなくて、今も引きずるような後悔もしたことがないですけど、目の前で、まさしく「こぼれおちていった」時間を見て、後悔というか、なんだろう、もっと丁寧に生きなきゃなって思いました。(丁寧、っていえば、今日、虹の反対側からさしこむ秋の斜陽を見て「丁寧だなあ」って思いました。なんでだろ)
 例えば、携帯の充電を寝る前にしなかったなあとか。今日教科書忘れたなあとか。講義中寝ちゃったなあとか。友達の話をききながしちゃったなあとか。すごく雑に生きてるなって思って、これはとても勿体ないことだなと。
 無為な時間を過ごさずに一本速い電車に乗っていたら、帰宅して一眼を手に取った私の目の前には、大きな虹がきらきらと輝いていたのだと思います。
 この感覚を「後悔」と言いたくないんですけど、「後悔」なんですかね。後悔よりも、随分さっぱりしてるんですけど。どうなんでしょうか。
 とにかく、凄まじく汗をかいて凄まじく臭かったので、シャワー浴びました。さっぱり。
 さあ、今日もあと五時間。どう丁寧に過ごしてみようかな。

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